株式会社ジズコ

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アル・ナグラー、Astronomy (2013)


36年間、あのテレビュー社を通じ、天文趣味の世界でその力を注いできたアル・ナグラー。ただ、彼の軌跡はそれだけで語りつくすことができない...Michael E. Bakich

■アル・ナグラーの両親、IsidoreとMildred (Cohen) Nagler夫妻。アルのために安定した幸せな家庭を築いてくれた。









読者の多くは、夜空をより広く、よりシャープにとらえる革命的な広角アイピース“ナグラー”の開発者としてご存知かと思う。アル・ナグラーはテレビュー社の創設者として、ルネッサンス、ジェネシス、NPシリーズなどのペッツバール式屈折望遠鏡をはじめ、ナグラー、ラジアン、パンオプティックアイピースなど、天文愛好家にはおなじみの高品位な光学製品を世に出す。また、最近はイーソスやデロスといった新型アイピースの監修も手がけている。

だが、ニューヨークの夜間学生出身の発明者であることや、多くの職歴と回り道をして今の成功にたどり着いたことは、あまり知られていない。今年で元気な77歳になるアル・ナグラーは、自称大きな子ども“ビッグキッズ”である。 「オトナになれない類だよ」と、アル。「ただ、可能なかぎり若々しい情熱を保ち、物事のポジティブな面をみる、できるだけね。人と触れ合い、その人とどうやって知り合ったかを考え、その人の経験に自分が何をそえることができるか、といつも思う」

■アル・ナグラーとジュディ婦人_フロリダ州オルランドで開催された2005 Photo Marketing Association Showのテレビューブースの前で

天文以外のこだわり

我が天文の世界では知る人ぞ知るナグラーの趣味は、アートから、クラシック音楽、オーディオまで幅広い。「ハイファイ愛好家でね」と、アル。「実は天文と同じくらいオーディオが大好きなんだ。油絵も長かったけど、いまでは、製品のイメージを浮かべながら新しいデザインをスケッチするのが、唯一のアート活動だ。中学を卒業した後、ニューヨーク市にあるHigh School of Industrial Artsと、Bronx High School of Scienceの2つの高校を受けていずれも合格したが、選んだのはScience(科学)の方。それでも、アートから気持ちが離れることはなかった」。

実は、ナグラー氏のアート経歴はいくつかのテレビュー製品にも反映されている。「たとえば、テレビュー スタービームファインダーをよく見てもらうと」と、アル。「筒の後側が奇妙な曲線になっているね。『なぜこのような曲線になっていると思う』と、よく人に尋ねる。すると、みんな返答にこまるんだ。そして、自分の好みでそうしたことを明かすんだ」。

「テレビュー社の製品に特有の面取りやテーパー形状もまた自己主張のひとつ。ちょっと美的感覚を加えたつもり」と、笑うアル。「自分のなかにあるアート願望を、こうして発散しているわけ」。

幼年時代の星空

天文への興味はアル・ナグラーの幼い頃に芽生えたことは想像に難くない。「はじめて手にした望遠鏡は...」と回想するアル。「子どものころに手にしたのは9センチの反射望遠鏡で、その他にも小型望遠鏡やRoy Rogersの双眼鏡などで遊んだ。Bronx High School of Scienceに入学したころには、自分の理想の望遠鏡を造る技量があって、高校生になると、“The Scientific Techniques Laboratory”というユニークなクラスで、20センチの反射望遠鏡を作るのに専念した。その20センチのミラーは母のミシンの上で研いていたけど、いま思うとずいぶん辛抱づよい母だった」。

同高校の卒業式には自作の望遠鏡がステージに飾られ、校長先生から“工作”賞をもらうことになる。賞品はマイクロメーターで、アルはそれを長年愛用した。

■アル・ナグラー高校生上級生時代の力作20センチニュートニアン。1958年ステラファン星祭コンテストで3位の入賞作。










■アル・ナグラーの高校生時代、工作クラス担任のチャーリー・カファレッラ先生とその婦人。卒業後何年もたったある日、チャーリー先生は“どのテレビューバローでも使えるナグラーアイピース(アルの顔写真入り)”という広告をみて、“ああ、あの男か!”と気づき、アルに電話をくれた。写真の望遠鏡“ルネサンス”は、そのときにアルが先生にプレゼントしたもの。



■アル・ナグラーはアートの好きな子どもだった。この油絵は、著名なロシア人作曲家モデスト・ペトロヴィッチ・ムソルグスキーの曲「展覧会の絵」をイメージして自分が描いたもの。「展覧会の絵」は、もとより、ムソルグスキーが、友人のビクトル・ハルトマンが描いた一連の絵に捧げた曲。





高校を卒業する4年前に父が他界したため、ナグラー氏は母と妹を支援するために働かなくてはならない。最初の仕事は鉛工場で引き物加工を担う機械技師だった。この時代は、もちろん、鉛が危険であることなど知る由もない。

「とても好きにはなれなかった仕事で、2週間後にクビになった。でも、ふつうのクビじゃなかった」と、アル。「職業紹介所で得た仕事だが、ある従業員が2週間の休暇をとるので、その穴埋めに自分が雇われたことが、あとで判った。おまけに、職業紹介所には手数料を払わなければならなかった!」。

次も少し変わった職に就いく。機械加工に興味のあったナグラーは、ブルックリンのSientific Machine Corpの広告に手応えを感じた。「高校で望遠鏡を造った若者にはピッタリの社名だ。よろこんでその職に就いたけど」と、アル。「自分の仕事は、ゲームセンターのゲーム台や、スーパーマーケットにある車の乗り物などの組立てだった」。

この仕事も長くはなかった。「ある日、オーナーのジャック・ファイアーストーンが目の前にきて、『アル、おまえには他にもっとできることがあるだろう。クビだ。』」と、アル。「オーナーは本気でそう言ってくれたし、結局、彼の言うとおりだった。そのときはいやな思いをしたが、自分にはいい薬だった」。

ひどい悪臭

ナグラー氏の短命な職歴は、他の化学工場でも続く。最初のNational Starch Co.では、会社のニュージャージへの移転に家族を連れていくだけの費用が出せず断念。「最悪の仕事は」と、アル。「ブロンクスにあるメッキ工場で、酸や溶剤を含む化学薬品の検査だ。2階に自分専用のラボを与えられたが、その部屋には窓も換気扇もない」。

「この環境に耐えきれず、不満を訴えたが、無視され」と、アル。「そこである日、硫化水素“腐った卵ガス”を大きなタンクに入れ、扇風機でメインオフィスに流し込んだ。これでおあいこというわけだが、当然のことながらまたクビになった」。

高校卒業後、ナグラーはニューヨークのシティーカレッジの夜間部に通う。昼間は仕事があったので、全日制の学位は辞退し、音楽史、地学、化学、製図(後に機械工学の道を開く)を学び、後半に物理を専攻した。

「親しいひとにしか話してないけど」と、アル。「最初はブロンクスにある1946年創設のS&S Industries社で製図を担当した」。S&S社はいまでもブラジャー・ワイヤー全市場の9割を占める会社だ。

「この会社では数多くのアンダーワイヤーの品質管理に使う型板を作ることになり」と、思い起こすナグラー氏。「笑われるかもしれないけど、ブラジャーカーブの精確なライン図を製図するのが仕事だ。一年くらいはここで働いたかな」。 次は、ニュージャージ州Lightolier社で受けもった光を追尾するための製図だ。こうしてナグラー氏はようやく、人生の転機を迎える。

ハイレベルな光学系

■アル・ナグラー自作の30センチニュートン。1972年のステラファンで優勝






















「このころは、“Mechanix Illustrated”1955年12月号に高校時代に造った望遠鏡について寄稿するほか、製図の仕事も本格的になってきたし」と、アル。「偶然にも、米国天文誌Sky & Telescopeの編集長、アール・ブラウンは、私がこのころブロンクスで勤めた研究開発会社Ferrand Optical社のチーフ・プロジェクト・エンジニアだったことがあとでわかった」。

「1957年、Farrand Optical社でも製図の仕事につき、1年もすると光学設計部に誘われ、光学系の設計主任に抜擢された。うまくいった仕事だ」。

ナグラー氏はFarrand社に1973年まで勤めた後、Grumman Aerospace Corp社に入社。同社はNASAと共同で、宇宙飛行士用のビジュアルシミュレータを開発。ナグラー氏は、ジェミニプロジェクトの無限遠ディスプレイの設計を担当。このシミュレーターには地球の軌道、ドッキング、星野、月着陸の画像を投影する大きなミラーが使われる。

複雑な光学系を駆使した光学プローブにより、着陸画像がリアルタイムで表示される。このプローブはブームに搭載されたテレビカメラのような役割を果たし、月面模型の上に「飛来」する。さらに、ナイトビジョンゴーグルのアイピースと、宇宙飛行士のミラー式「ヘッドアップ」ディスプレイを設計(後にテレビュースタービームの発案につながる)。

夜間大学に16年通った末、ナグラー氏は物理理学士の資格を取得。これにより、Barkey Photo, Inc.社傘下のKeystone Camera Co.社の光学設計課長になることができた。そこでは、同社のポケットカメラのズームレンズを設計。このとき日本のレンズメーカーとの関係を築き、いまでも同社によるテレビュー製品の供給は続いている。

■1961年6月、アル・ナグラーはジュディ・パールマンと結婚。妻はアルとテレビュー社を共同で設立し、テレビュー社初のフルタイム従業員となる。







1973年Farrand社を退社後、Keystone社に入社したとき、ナグラー氏はFarrand時代の友人マット・ボームといっしょに、ステレオリバーブユニットを製作する会社をつくる。「ことのき、自らのアイデアを好きなように実現するソニーのような会社と競えるようになりたいと思い」と、アル。「少し方向を修正することにした」。

ボームは高性能な電子モーターブレーキを発明し、二人は、エレクトロニクスとメカニックを融合するAmbi-Tech Industries社を立ち上げる。

「最初はマットとパートタイムバースで働き、1976年Keystoneを退社してからはフルタイムで働いた」と、アル。「午後になると光学系のコンサルティングに従事し、1977年、妻のジュディとTele Vueをはじめる。ジュディが昼間Tele Vueを切り盛りする一方、私は夜になると設計に打ち込んだ」。

「1996年、マットと私はAmbi-Techを売却し、翌年の1997年までは新しいオーナーのサポートにまわり、ようやくTele Vueではフルタイムで働くことができた。二足のわらじをはいたおかげでTele Vueをゆっくりと立ち上げることができ、借金や投資家の世話にならなかった。翌1988年には息子のデビッドが私の手となり足となって、Tele Vue社の製造、製品開発、品質管理、広告、マーケティングに専念してくれた」。

■中央の月面シミュレーター用にアル・ナグラーが設計した無限遠の像を映し出すプロジェクター(Infinity Display Projectors)をテストするFarrand社の技術者。このテストでは、三角形のレンズ開口部が、モジュールの窓のひとつに対応。右のLEM INFINITY DISPLAY SCHEMATICでは、小さな三角形の「コンプレッサーレンズ」が、この窓にあたる。レンズの見掛け視界は110度、アイレリーフは30.5センチ、射出瞳径は304.8mm。宇宙飛行士の頭部をすっぽりと包む大きさで、飛行士は両目を開けたまま周囲を見回すことができる。

テレビュー社の成立ち

アル・ナグラーは、Lunar Moduleシミュレーターウィンドウが繰り出す110度の広視野と、月面を「飛来」する疑似体験から得た最大の光学的インスピレーションについて回想。「私は、Wright-Patterson Air Force Baseの光学プローブを作ったFarrand社チームの光学設計を担当し」と、アル。「140度の視界を実現する45枚構成の光学系がずっと頭のなかにあり、Tele Vue社を立ち上げたとき、プローブ対物の設計原理が“スペースウォーク”を体感させる広角アイピースの開発ベースになると考え、それから約10年を経、あのときの体験をすべてナグラーアイピースに反映することができた」。

数多くのビジネスに携わってきたナグラーは言う。「1970年代半ば、プロジェクター式テレビに人気が出始めたとき、凸形のテレビチューブと、オーバーヘッドプロジェクタのレンズの組合せで焦点が外れた像を補正する方法を知っていたので、妻のジュディとTele Vue社を始めることになった」。

「Tele Vueとは、“Television Viewing(テレビ鑑賞)”と、将来、“Telescope Viewing(望遠鏡による観望)”のビジネスに使えるかもしれないと考えて付けた名前だ。1977年のconsumer Electronics Showでは、“NASAの科学者が設計したProjection TV Lens”という主題で雑誌記事が書かれた。1978年には、Edmund Scientificを窓口に、Tele Vueで造った“5-inch Super Projection Lens”を販売し、同レンズキャビネットの組立解説書までも書いた。後に、より大きく、フラットな、リアプロジェクションスクリーンTVセットが市場にでる1985年まで、このレンズを販売し続けた」。

「このベンチャービジネスを通じ、仕事相手は慎重に選ぶことなど、貴重なビジネス体験を得ることができた」。 仕事上の厄介ごとのほかに、ナグラーにはひとつ個人的に悔やまれることがある。「私の父はオーストリア出身で、7ヶ国語を話す理学療法士でありカイロプラクタだ。愛情深く、厳格な父だった。米国に来る前に家系について聞かなかったのが、私の最も大きな過ちだ。」 「父は、私が15歳でBronx High School of Scienceに入学できたときに他界した」と、ナグラー。

「親友のマットと共同経営した製造業も楽しかったが、Tele Vue社というファミリー会社を築けたことが、私の人生でこのうえない喜びだ。妻ジュディは2008年に引退するまで、フルタイムで経営に携わってくれた。1988年には、息子デビッドをTele Vue社によろこんで迎え、彼の妻サンディはジュディの後継者となった」。

「Syracuse Universityでコミュニケーションを学んだ息子のデビッドは、Tele Vue社のマーケティング、広報、インターネットを前進させ、なによりも、ほとんどすべてのテクニカル業務を私のパートナーとして活躍している。彼は見掛け視界100度のイーソスのコンセプトを立ち上げ、長年Tele Vue社の社員であり、私の光学設計の弟子でもあるポール・デレカイと共にイーソスプロジェクトを導いた。Tele Vue社についてはいつも私の名前が全面に登場するが、いまのTele Vue社はこうしたすばらしいスタッフなしではありえない」。

■ステラファンでいっしょに観望を楽しむナグラー家を描いた画家ファン・フレミングの作品。彼自身、天文愛好家もある。左から、サンディ、デビッド夫妻、マイケル、メリル(ナグラー)夫妻、ジュディ、アル・ナグラー夫妻の順。(猫の名はグレイキャット)。

■2009年、ステラファンの会場でスピーチしたアラン・ビーン(立っている人物)。人類4人目に月面を歩いたアポロ12号の宇宙飛行だ。アルは自己紹介を済ませ、二人はアルが携わったアポロシュミレータについて語り合った。





■テレビの後方湾曲写野を最初に補正したTele Vue社の処女作「Tele-Kit投影システム」。アル・ナグラーは、光学系はもとより、キャビネットも設計。1977-1985まで生産される。











ここまでアル・ナグラーが思い起こすいい話を書いてきたが、プロとしての仕事がぐるりとひとまわりしてつながったすばらしい瞬間を紹介しよう。

「人類が最初に月に着陸して40年目になる2009年、ステラファン スターパーティーの運営部は、月面に着陸した宇宙飛行士のひとり、アラン・ビーンを招き入れ講演を依頼した」と、アル。「ステラファンは自分にとって最も愛着があるスターパーティーだ。1958年の高校時代には自分の作品が3位に入賞し、1972年には自作の30センチ望遠鏡が優勝した地だからね」。

「講演の前、アランのためにディナーが用意された。アポロシミュレーターでの私の職歴を知るステラファンの人たちが、私に一言挨拶を求めた。」

「アランは私のことなど知らないが、私が少し話したことにはとても喜んでくれた。ディナーの席で話がはずむと、私はアランにアポロシミュレーターについて書いた一冊の本を手渡した。ビーンがシミュレーターの中にいる写真を事前にNASAから手に入れた私は、その本に忍ばせた。その本の上には、“親愛なるアラン、シミュレーターがうまく働いてくれてよかったよ”と書いた」。

「私にとっては」と、ナグラー氏。「Farrand社、Tele Vue社から、高校時代のステラファンまで、ぐるりとつながった想いをパーフェクトに表現できた瞬間だった」 。

さいごに

■2012年、ドイツ、エッセンで開催されたAstronomischer Tausch und Trodelltreff European Astronomy Show。スペシャルゲストとして講演したアル・ナグラー。






アル・ナグラーに会えば、まだ引退していない現役の活躍ぶりがひとめでわかる。今でもほぼフルタイムで働くが、2005年にはCEOに退き、息子のデビッドを社長に就任させ、余暇を旅行に使う。

「引退するには面白いことが多すぎる」と、アル。「いつもアマチュアの天文愛好家と話ができる。そのみんなが潜在顧客というわけではないが、友達ができたりする」。いまでも、気さくな性格で友達の多いアル・ナグラーだ。


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